トンボノート

トンボです。

ニット帽をかぶったら自意識が爆発した話

この前の金曜日は特に寒かった。

冬があんなに寒かったとは、完全に忘れていた。気温が10度前後をフラフラしていた12月上旬までの僕の余裕を容赦なくへし折ってくる寒さだ。yahoo天気では夕方の気温は前日比−5の3度であった。

 

 

僕が高校に上がった頃に買って以来、冬の間は出突っ張りになっていた黒いPコートは、幾年もの月日の流れと満員電車に詰め込まれる人の流れに曝され続けた結果、もはや毛玉を作るだけの生地の余裕もなくなり、熊の毛皮の如きゴワゴワの地毛を残すのみとなってしまい、保温性は期待できなくなっている。

 

このままではいよいよ今年の冬は越せねぇと思ったので、年の初めに正月セールに乗っかって新しい上着と普段使うことがないニット帽を買った。分厚いフリースというか、裏地がモコモコのジャケットというか、ファッションを体系的に考えたことのない僕にはこの上着がいかなるジャンルに分類されるものなのか分からないが、まぁ暖かいしモコモコだしいい買い物だったのではないかなと思っている。

 

 

そんな感じでホクホク過ごした正月もいつしか遠ざかり、世間は正月が存在したのかも怪しいほどにあっという間に通勤通学日常モードに切り替わっていった。

 

日常に戻ったのは僕とて例外ではなく、金曜日も学校に行くため朝8時頃に起きたわけなのだが、この日の朝はどうしたってくらい寒かった。

暖房がないフローリング床の僕の部屋が寒くて寝床から抜け出して二本の足で立ち上がるまでのプロセスにおいて最大の障害になるのはいつものことなのだが、この日は気だるいのを通り越してびっくりしてしまい、慌てて起きてカーテンを開けてしまったほどだ。まぁ別に絶対温感的なものがあるわけでもないしカーテンを開けたことで何かが分かるわけではないのだが。

 

それでも外に出なければいけないので、なんとかベッドを抜け出して完全防備で出かけることにした。いつもの格好では前からすでに夜風を冷たく感じていたので、いつもより2枚多く着込んだ。さらに、いつもは帽子なんて被らないのだが、この日はしっかり対策しないと自転車に乗っている間に耳がとれると確信したので正月に買ったニット帽も被っていくことにした。

 

顔を洗って着替えてから鞄を掴んで、さぁ出かけるぞというところで、僕ははたと立ち止まった。

ニット帽って、これでいいのか?この被り方なんか変じゃないだろうか?道行く人はそういえばどんな感じだっただろうか?…

気になったその途端に意識は自分の首から上に集中し、他人と比べて自分が非常に滑稽な被り方をしているイメージが頭一杯に広がった。こうなるともうダメだ。出かけられない。僕は自意識がとてもすごい。とても過剰だ。

 

急いでスマホで「ニット帽 被り方」で検索し、1番普通の被り方をしているであろう写真を元に鏡を見ながら微調整を繰り返した。耳が全部隠れているとおかしいのかな、額はもう少し出ててもいいな、鏡の前で頭を撫で回し左右に首を振り続けること実に10分。ようやく外に出る決心がついた頃には、乗るはずだった電車はもう駅を出ていた。僕は自意識がすごい。

 

 

 

普段慣れないことをするときには特にこれがヒドい。自分がおかしなやり方をしていないか気になって仕方ないのだ。

 

そういう状況はファッションとか容姿に限ったはなしではなく、例えば飲食店でもそうだ。

 

電車の時間とか待ち合わせの時間まで少しあるなっていうときに、カフェでまったり時間を潰すのはよくあることだと思うが、かくいう僕もそういう時にカフェに入ることは多い。そのカフェもコメダくらいファミレス感のあるところなら何ということはないのだけど、入った店が初めてのところかつ一人客が多い落ち着いた雰囲気のところだと頼み方とか席の位置とかが気になりまくってもう厳しい。

セットメニューはメニュー表のどこから組み合わせを選べばいいかが分かりづらい場合が多いので、基本的に頼まない。食べたいと思ったサイドメニューに「野菜たっぷりのオニオンとバジルのホットドッグ」みたいなどこまで省略していいんだろういや全部読み上げるべきなのかな的名前がついていようものなら、どんなに空腹だろうとすまし顔で飲み物だけを注文する。

入ってからコーヒー飲んで落ち着くまでの間で少しでも不安な場面があっただけで自意識の暴風が吹き荒れ一挙手一投足を気にし始めるから、もう〈くつろぎ空間の創造〉的なお店のコンセプトはどこかに飛んでいってしまう。

 

「え、このドリンクとこのフードの組み合わせ…?そんなやつ初めて見たわニワカだよあれ」「うわ、あの客1人なのにテーブル席座っちゃったよ…そこ普通はカップルとか友達同士で来た人が座るんだけどなぁ奥にカウンターあるの知らないのかぁ」的な風に見られている気がして、唯一異端な僕は一刻も早くこの空間から脱出しなければいけない!という気にすらなってくる。

もはや何でカフェに入ったのか分からない。

 

 

 

 

 

ここまで話すと、他人の目を気にし過ぎだ、他人はお前のことをそんなに気にしちゃいないよ、というよくある助言風辛口進言が飛んできそうだ。

しかしこの場合、失敗して笑われたり変な目で見られることそれ自体は実はそんなに問題ではなかったりするのだ。


いやまぁ確かに笑われるのも訝しまれるのも出来れば御免なのだが、こういう失敗はそんなに引きずらないで済むからだ。あんなにこじらせているけど、僕は街中で歩きながら大口開けてあくびをしてしまう人間だし、歩いてて段差を踏み違えてコケてもそこまで気にしない。

その時恥ずかしくても少しすればどうでもよくなるし、同じく周りの人は僕の失敗なんか数秒でどうでもよくなることも分かっている。

 

 

じゃあニット帽やカフェのケースと単なる失敗のケース、何が違うのかと言われれば、それは「経験の有無」なんだと思う。転んだ、人前で怒られた、思わずおならが出てしまった…そういうのは老若男女誰もがやりうる失敗だ。しかしカフェでの立ち居振る舞いや服の着こなし方なんかは、周りにいる人はみな「経験者」である環境なのに自分が「未経験者」であるが故にボロが出るものである。

あれこれ考えてみたが、多分僕が怖いのはこの「未経験者」だと思われる(バレる)ことなのだろう。

 

 

 

 

 

大学は本当に色々な人が集まる。育った場所、時、好きなもの、積み重ねてきた経験、知っている知識の範囲…そういうものが人ごとに全く違うのだ。

そうすると人と関わるごとに、自分が全然知らない果てしなく広大な未経験領域の中から、この人はこの部分を知っている、あの先輩はこの部分に詳しい、あの後輩はこっちの部分に詳しい、といった感じに次々と「未経験者ぶり」を突きつけられることになる。

もちろんそれは励みになるし、ここが大いに恵まれた環境なのは百も承知なのだが、しかし僕は未だに自分の経験領域の小ささを受け入れてさらけ出すことができていない。

その躊躇が、巨大な器の小ささとでもいうべき恐れが、最初に述べた自意識の爆発の根本にあるものなのだろう。

 

 

 

これからさらに関わる人間は増えて、僕が知る未経験領域はさらに広がっていく。そう遠くないうちに自分の経験領域の狭さは隠しきれないものになって、僕はもっともっと沢山の恥をかくことになるのだろう。

 

とても恐ろしい話だし、正直なところできることなら死ぬまでひっそり虚勢を張って生き続けたいものだが、そういうわけにはいかないこともやっぱり理解している。

 

 

 

 

 

 

とりあえず、僕がまず挑むべきは、この真新しいニット帽なのかもしれない。

 

今日はだいぶ気温も上がりいい陽気の一日になりそうで、これならモコモコ上着もニット帽も必要ないだろう。

でも僕はあえてニット帽を被って出かける。

耳はどこまで隠れればいいのか、ロゴは真ん前にくればいいのか横にくればいいのか、そもそもこの服とニット帽が合っているのか、未だに全然分からないし慣れないけれど、それでも僕は分からないまま外に出よう。

 

 

頭に無知を被って玄関のドアを開けてみると、確かに、今日は割と暖かいみたいだ。