トンボノート

トンボです。

相撲協会に「公益性」は残っているのか

昨年末から新年はじめにかけて、相撲協会にまつわる問題が世間を騒がせた。暴行問題、過去の事件、組織の体質…。ニュースも新聞も、電車の中でのおばちゃん達の会話も、角界関連の話でもちきりだ。

 

昨年末には、当時横綱であった日馬富士関が平幕の貴ノ岩関に暴行をふるった事件が問題になった。モンゴル出身の力士の間で起きたこの問題は、九州場所が開催されている最中の11月半ばにメディアが報道したことで明るみに出ることとなり注目を浴びた。

当初はビール瓶の存在が争点となるくらいの話であったこの問題は、両力士の所属部屋の親方の姿勢や相撲協会の事後の対応をめぐる疑惑などにもおよび、一部の報道ではモンゴルと日本両国間の問題への波及も心配されるなど、どんどんスケールが膨らんでいった。結局、日馬富士関は現役引退、傷害罪での略式起訴という形にいたり、親方と協会を巡る問題では、貴ノ岩関の親方で巡業部長であった貴乃花親方が協会理事の解任という形になった。

その後も、過去の暴行問題をめぐる疑惑や協会の事後対応の不備など、報道のネタは尽きる様子がない。

 

年末の暴行事件にまつわる話は、様々な視点から指摘を受け続けるうちに、いつしか一つの事件の枠を離れ、相撲協会、相撲界全体にかかわる問題へと変わっていった。

 

 

 

相撲協会の在り方を考える上でのキーワード

 

しかし僕は、この相撲協会という組織をめぐる話が、果たして正しい方向に進んでいるのかという点に関して、いささか疑問を抱かずにはいられない。

貴乃花親方vs協会という、対立劇として描かれ注目を浴び続けているが、そんなヒーロー活躍劇のようなもので片づけられる話でもない。どの報道も、貴乃花親方がどうなるのか、協会はどんな判断をするのか、という部分を追うのみである。それがどんな結果に終わっても、ヒーロー劇の観客はそれぞれ思い思いの感想を述べながら離れていくだけだ。

現実に、今回の役員候補者選挙の結果に対して批判は出ても、具体的に協会の体制を変えるような動きは出てこない。

 

理事を解任され、賛同してくれる親方からの票を頼りに役員候補選挙に挑んだ貴乃花親方のHPのメッセージを読んだ。僕は、今回の貴乃花親方の問題提起の方法などには必ずしも支持できないと感じる部分もある。しかし、この声明には、相撲協会を考える上でのカギが示されていると思うのだ。

協会の行く末を考える件では、「大相撲は誰のものか」「公益性の意味を考え直す時期に来ている」といった考えがつづられていた。

 

僕は、この相撲協会の存在意義、つまり「公益性」こそ、一連の問題において論じられるべき部分だと思うのだ。公、というのだから、当然その言葉が示すのは、協会重役でもなければ貴乃花親方でもなく、我々市民だ。本当に公益性を考えて論じるべきは、相撲報道のテレビをコタツでのんびり眺めがちな我々である。

 

ざっくりしすぎなので、詳しく話していきます。 

 

 

公益法人」としての相撲協会

 

まず、日本相撲協会という組織がなんなのかという話から。

僕なんかは、相撲界を支えるでっかい団体、というような程度の認識でいたのだが、この組織がそもそも何なのか、公的なのかそうでないのか、といった話は意外と知られていないのではないだろうか。組織の概要を見ていこう。

公益財団法人日本相撲協会(にほんすもうきょうかい英語: Japan Sumo Association)は、大相撲興行の幕内最高優勝者に対して「摂政賜杯」(現在の天皇賜杯)を授与するために1925年財団法人として設立され、2014年公益財団法人に移行した相撲興行団体である。公益法人としての法人格の取得及び維持のため、相撲競技の指導・普及、相撲に関する伝統文化の普及を定款上の目的としている。

出典:Wikipedia-「日本相撲協会

設立はかなり古く、歴史のある組織である。相撲を運営すると同時に、相撲文化を盛り上げていこうというのが、この協会の目的。

相撲協会は「公益財団法人」という団体に分類される。法人には財団やら一般うんたらやら色々な種類があるが、ここではそれぞれの法的な細かい定義などは省かせてもらいます。話すと長くなって僕が何を言いたかったのか忘れてしまうので。

 

 

ざっくりとイメージの話だけをしよう。法人には大きく分けて「社団法人」と「財団法人」の2つがある。

 

社団法人」は、平たく言うと「何かをしたい人たちの集まって作る組織」だ。社団法人になると、その組織の名義で事務所を借りたり契約を結んだりってことが可能になる。同好会やら協会やら、何かをしたい人たちが組織的にやっていこう、となったものが社団法人だ。

一方の「財団法人」は、「お金がめっちゃあるからそれ使って何かしたい人が作る組織」だ。個人や会社が持っているたくさんのお金、そのまま抱えていても何も起こらないので、せっかくだしこれで何か運営して金利で資産も増やすか、ってなったときに必要となるのが財団法人の立ち上げ。財産運用のためのものなので、設立するときには財産が300万円以上なくてはいけない。

そして、これらの法人の事業が世のため人のため、つまり公益性を持ったものであるという認定をもらえれば、「公益法人」となり、それぞれ「公益社団法人」「公益財団法人」となるわけだ。

 

なるほど。でも公益法人になると何かイイコトあるんだろうか?そもそも、公益性ってよく分からないし、そんなもん誰が認定するんだ。

 

公益法人化のメリットは、主にお金(税金)関係での優遇が受けられることにある。事業の収入が非課税になったり、寄付金を払った人にも優遇措置があったりするのだ。また公益法人はそんなにポンポン簡単になれるものでもなく、優れた事業能力があることの証明にもなるので、社会的な信頼、ネームバリューが得られる点は大きいだろう。

その公益性、つまり多くの人々のために役立つ事業なのかどうかという判断は、民間の第三者委員会の審査で行われる。しっかり運営するための経理能力があるか、理事や関係者に特別な利益を与えたりしていないか、といったような審査項目をクリアしなければいけない。

特典が税制優遇措置なので、ほとんどは資金運用がらみの項目となっている。この第三者審査をクリアしたあとに行政庁(内閣府もしくは都道府県)に正式に公益の認定をもらうことで、公益法人として事業の優遇を受けられるようになるのだ。

 

法人設立自体の壁が高くないのに対して、公益認定はかなりハードルの高いものであるといえるだろう。

当然、定期的な監査次第では認定の取り消しもあり得る。しっかりとした運営体制が整っていなければ公益法人化は難しい。

 

相撲協会はこうしたハードルをクリアし、公益のための団体という名のもとに活動を行っているのだ。貴乃花親方らが問題視する「公益性」というのは、ぼんやりした目標の話ではなく、厳密に定められている決まり事なのだ。

 

ここまでが相撲協会の組織としてのまとめ。長くなったが、では以下から最近の相撲協会の問題をどのように考えるかという話に戻ろう。

 

 

相撲協会の「公益性」を議論すること

 

 

歴史もあり、上に述べた公益監査も通っている相撲協会は、経理面では問題のない法人のはずだ。大きな団体だし経営陣も優れた人材を豊富にそろえているに違いない。

では、運営面、もっというと理事会をはじめとす役員陣はどうだろうか。先ほど述べたように、公益認定の項目には「理事や関係者に特別な利益を与えたりしてはいけない」というものがある。

役員会の理事・副理事の一覧には力士出身者が名を連ねる。外部及び監事には検察庁、会計士、住職などの出身者があたっている。評議員会を開く評議員にも力士出身者、他協会の出身者などがおり、議長である池坊保子氏は文部科学副大臣だった方だ。

 

先に述べておくと、僕は力士出身者の役員はグルだとか、議長は文科省とのパイプ役だとか、そんな陰謀論や憶測を語るつもりはないし、そんな話は何の役にも立たないことは分かっているつもりだ。しかし、この体制の組織が行った問題への対応に、果たしてどれくらいの人が手放しに全幅の信頼を寄せられるのだろうか。派閥が存在する世界で、役員を含むあらゆる協会構成員は、何にも縛られず正しい判断を下すことができているのだろうか。

そのあたり、疑問が拭いきれないのも確かである。組織の枠組みというハード面がいくらちゃんとしていても、ソフトの面次第で組織が腐敗し崩れることもある。

 

事件後、九州場所千秋楽の表彰式で万歳三唱を行った白鳳に対して、協会内部からも批判が出たと聞く。

問題がまとまっていないのに事件の当事者である白鳳が音頭を取ったこと自体に対する批判はわからないでもないが、おそらく彼は純粋に、心配しながら見に来てくれた相撲ファンの人々にせめて楽しく帰ってもらいたいというサービス精神で行ったのだと思う。観客を、ファンを、第一に考えて動くことはそんなに誤った判断なのだろうか。協会の顔立てやらお偉いさんへの礼儀やらが、人々を楽しませること以上に相撲に大切なものなのだろうか。

この話においても、僕は、今の協会には相撲文化を支える一般の人々を見る目が失われているのではないかと思ってしまうのだ。

 

 

推測でモノを語るな、というのであれば、むしろだからこそ彼らは徹底的な問題の解明と、公たる人々に対しての説明を行うべきなのだ。

公に益すること、相撲の文化の継承と発展を標榜する以上は

「お金の流れがクリーンだし実際に行政庁の視察もパスしてるんだから事業運営は健全そのもの、何も問題はないだろう文句言うな」

的な姿勢がまかり通るべきではない。

 

もちろん協会役員は政治家ではないから、公平性が損なわれるからというような理由で辞めさせられるなんてことはまず起こらないだろう。私たちは協会の役員の人間を決める立場にないし、ふさわしい人物かどうかを判断する資格もない。

相撲の実際の運営も担っている以上、外部からの人間ではなく自らが相撲に関わってきた人々でなければ動かせない部分もあるのだろう。

しかし、今現在の相撲協会が公益性によって成り立っている以上、「相撲ファンでもなく寄付もしたことない一般人に説明する必要はないし、あれこれ言われる筋合いはない」というわけにはいかないし、僕はむしろ政治家の説明責任にも近いものが彼らにはあると思っている。

今起きている問題に関する説明も、所属力士やスポンサーだけではなく、多くの市民の理解を得るために行わなければならないはずだ。一連の問題の対応の中で、物事の流れを変えてしまうような「特別な関係」というのがないというのであれば、それだけの説明責任を果たすべきだろう。

 

 

もしそれができず、人々に理解が得られないのであれば、少なくとも協会は法的に公益団体を名乗るべきではないのだから。

 

  

そして、これを論じる僕たち市民やメディアの方も姿勢を改めなければいけないだろう。貴乃花親方を孤独のヒーローに仕立てて応援するより、やるべきことがあるはずだ。

協会に公益組織としての説明と今後の対応策を求めていかなければ、相撲協会の体制・姿勢が変わることはない。いくらワイドショーで親方同士の確執話や人柄なんかが報道されたところで、協会の行く末に影響を及ぼすようなことにはなりえない。

この問題を扱う上で追求すべきは、親方の個人的な話ではなく、組織としての、公益団体としての相撲協会の在り方の部分なのだ。有名で昔からある団体だからと言ってその組織の基盤を疑わなくなったら、協会の体質は見直されないままになるだろう。役員の話も、過去の暴行問題の話も、すべて個人的な事情ということで終わり、同じような組織体制がこの先も続いていくだけだ。 

 

 

 

 

日本の伝統文化や文化財がらみの組織やら制度は、実は結構穴だらけでグダグダな部分もあると聞く。

例えば博物館や動物園などに関わる法律である博物館法は、「ザル法」(不備だらけであるということ)なんて呼ばれたりもしている。そんなだから博物館はお金関連でも制度関連でもおかしな部分がたくさんある。いろんなしがらみの中でなかなか改善できずに続いていることが多いのだ。

相撲協会のような大きな文化事業の組織を改めて根本から考え直すことは、そうした日本の伝統文化事業全体を見直すことにも関わってくるはずだ。

 

 

 

 

「伝統」の名のもとに、素晴らしい文化が腐敗に巻き込まれ、いよいよ修復不可能なまでに損なわれてしまってからでは遅い。 

 

会話は手押し相撲だと思う

ブログを開いたはいいもののネタがない。

というより、記事になるほどの規模とまとまりを持ったネタというものが意外と見つからない。たすけて。

 

 

 

時事ネタやら政治ネタで世間にモノ申すこともできないわけでもないのだが、3記事目にしてそれはどうなんだと思って何となく迷っていた。

いや、なにも「政治の話とかむずいわw そーゆーのつまんないしオレよく分かんねーっすよw」的な話ではない。世の中の流れをよく見て常に自分なりに考えている人はえらいと思うし、僕もそうありたいとは思う。でもこういうネタはタイミング次第で受け取られ方も変わってくる。

特に、世の中のご意見番ポジション、つまり口を開けば政治か時事トークみたいなスタンスは、なかなかに難しいものがあると思う。このブログを人に例えると、僕は出会って3つ目の話が時事ネタのやつってことになる。自己紹介して、帽子と自意識の話して、次が世間に対するご意見という会話の流れ。大学のサークルの新歓とかで話しかけられたら苦笑いで対応するしかないタイプの、結構扱いに困る人だ。

 

時事ネタの会話っていうのは、自分も相手もそういうちょっと真面目な話をする態勢がきちんと整っていないと難しい。楽しくお酒飲みながらお笑いネタで盛り上がってる時に、横から北朝鮮問題と政府の国防予算の関係についての話を振られても、なかなか乗れるものではない。こういう話題は、どちらかの用意が整っていないとあっという間に会話の土俵からはじき出されてソロ舞台になってしまう、いわば手押し相撲なのだ。

 

もしここで、

そういう姿勢が若者が政治に関心を持たない原因なんだそんなんだから日本の学生は政治の討論ができないんだ知ってるかアメリカなどの外国ではな

的なことを言われても僕にはどうすることもできない。なぜか。僕がその会話の勢いに乗る用意ができていないから。だから、はじき出された僕にできる反応といえば、それっぽい神妙な表情を浮かべながら空虚な相槌をうつことくらいだろう。

 

それなのに、世の中には、不意打ちで相手を土俵からはじき出しておいて「政治の話が通じない、嘆かわしいことだ」みたいな姿勢を取る人がいるものだ。まったく、最近のやつは会話のマナーがなっtt

 

 

 

そんなことを考えていたので、しばらくはソフトなネタを放流しようと思っていた。しかし一方で、下書きにはお堅い話ばかりが積もっていく。今のところ、他にまとまった記事がないし、これを使うしかないみたいだ。

 

だから、あらかじめ言い訳をすることにした。先に言い訳をしておけば、少なくとも不意打ちの卑怯者にはならずに済む。

 

 

 

僕は、口を開けば時事ネタマンじゃないしご意見番ポジションを目指しているわけでもない。ここでの僕の時事話はある意味では独り言だ。これは、相手を想定していない、一人手押し相撲というわけ。

以上。

 

 

 

よし。これで、このブログは誰も傷つけずに時事ネタを扱えるようになりました。OK?

では次の記事からさっそく時事ネタに触れていきます。やったー。

 

 

ちなみに、相撲ネタです。

ニット帽をかぶったら自意識が爆発した話

この前の金曜日は特に寒かった。

冬があんなに寒かったとは、完全に忘れていた。気温が10度前後をフラフラしていた12月上旬までの僕の余裕を容赦なくへし折ってくる寒さだ。yahoo天気では夕方の気温は前日比−5の3度であった。

 

 

僕が高校に上がった頃に買って以来、冬の間は出突っ張りになっていた黒いPコートは、幾年もの月日の流れと満員電車に詰め込まれる人の流れに曝され続けた結果、もはや毛玉を作るだけの生地の余裕もなくなり、熊の毛皮の如きゴワゴワの地毛を残すのみとなってしまい、保温性は期待できなくなっている。

 

このままではいよいよ今年の冬は越せねぇと思ったので、年の初めに正月セールに乗っかって新しい上着と普段使うことがないニット帽を買った。分厚いフリースというか、裏地がモコモコのジャケットというか、ファッションを体系的に考えたことのない僕にはこの上着がいかなるジャンルに分類されるものなのか分からないが、まぁ暖かいしモコモコだしいい買い物だったのではないかなと思っている。

 

 

そんな感じでホクホク過ごした正月もいつしか遠ざかり、世間は正月が存在したのかも怪しいほどにあっという間に通勤通学日常モードに切り替わっていった。

 

日常に戻ったのは僕とて例外ではなく、金曜日も学校に行くため朝8時頃に起きたわけなのだが、この日の朝はどうしたってくらい寒かった。

暖房がないフローリング床の僕の部屋が寒くて寝床から抜け出して二本の足で立ち上がるまでのプロセスにおいて最大の障害になるのはいつものことなのだが、この日は気だるいのを通り越してびっくりしてしまい、慌てて起きてカーテンを開けてしまったほどだ。まぁ別に絶対温感的なものがあるわけでもないしカーテンを開けたことで何かが分かるわけではないのだが。

 

それでも外に出なければいけないので、なんとかベッドを抜け出して完全防備で出かけることにした。いつもの格好では前からすでに夜風を冷たく感じていたので、いつもより2枚多く着込んだ。さらに、いつもは帽子なんて被らないのだが、この日はしっかり対策しないと自転車に乗っている間に耳がとれると確信したので正月に買ったニット帽も被っていくことにした。

 

顔を洗って着替えてから鞄を掴んで、さぁ出かけるぞというところで、僕ははたと立ち止まった。

ニット帽って、これでいいのか?この被り方なんか変じゃないだろうか?道行く人はそういえばどんな感じだっただろうか?…

気になったその途端に意識は自分の首から上に集中し、他人と比べて自分が非常に滑稽な被り方をしているイメージが頭一杯に広がった。こうなるともうダメだ。出かけられない。僕は自意識がとてもすごい。とても過剰だ。

 

急いでスマホで「ニット帽 被り方」で検索し、1番普通の被り方をしているであろう写真を元に鏡を見ながら微調整を繰り返した。耳が全部隠れているとおかしいのかな、額はもう少し出ててもいいな、鏡の前で頭を撫で回し左右に首を振り続けること実に10分。ようやく外に出る決心がついた頃には、乗るはずだった電車はもう駅を出ていた。僕は自意識がすごい。

 

 

 

普段慣れないことをするときには特にこれがヒドい。自分がおかしなやり方をしていないか気になって仕方ないのだ。

 

そういう状況はファッションとか容姿に限ったはなしではなく、例えば飲食店でもそうだ。

 

電車の時間とか待ち合わせの時間まで少しあるなっていうときに、カフェでまったり時間を潰すのはよくあることだと思うが、かくいう僕もそういう時にカフェに入ることは多い。そのカフェもコメダくらいファミレス感のあるところなら何ということはないのだけど、入った店が初めてのところかつ一人客が多い落ち着いた雰囲気のところだと頼み方とか席の位置とかが気になりまくってもう厳しい。

セットメニューはメニュー表のどこから組み合わせを選べばいいかが分かりづらい場合が多いので、基本的に頼まない。食べたいと思ったサイドメニューに「野菜たっぷりのオニオンとバジルのホットドッグ」みたいなどこまで省略していいんだろういや全部読み上げるべきなのかな的名前がついていようものなら、どんなに空腹だろうとすまし顔で飲み物だけを注文する。

入ってからコーヒー飲んで落ち着くまでの間で少しでも不安な場面があっただけで自意識の暴風が吹き荒れ一挙手一投足を気にし始めるから、もう〈くつろぎ空間の創造〉的なお店のコンセプトはどこかに飛んでいってしまう。

 

「え、このドリンクとこのフードの組み合わせ…?そんなやつ初めて見たわニワカだよあれ」「うわ、あの客1人なのにテーブル席座っちゃったよ…そこ普通はカップルとか友達同士で来た人が座るんだけどなぁ奥にカウンターあるの知らないのかぁ」的な風に見られている気がして、唯一異端な僕は一刻も早くこの空間から脱出しなければいけない!という気にすらなってくる。

もはや何でカフェに入ったのか分からない。

 

 

 

 

 

ここまで話すと、他人の目を気にし過ぎだ、他人はお前のことをそんなに気にしちゃいないよ、というよくある助言風辛口進言が飛んできそうだ。

しかしこの場合、失敗して笑われたり変な目で見られることそれ自体は実はそんなに問題ではなかったりするのだ。


いやまぁ確かに笑われるのも訝しまれるのも出来れば御免なのだが、こういう失敗はそんなに引きずらないで済むからだ。あんなにこじらせているけど、僕は街中で歩きながら大口開けてあくびをしてしまう人間だし、歩いてて段差を踏み違えてコケてもそこまで気にしない。

その時恥ずかしくても少しすればどうでもよくなるし、同じく周りの人は僕の失敗なんか数秒でどうでもよくなることも分かっている。

 

 

じゃあニット帽やカフェのケースと単なる失敗のケース、何が違うのかと言われれば、それは「経験の有無」なんだと思う。転んだ、人前で怒られた、思わずおならが出てしまった…そういうのは老若男女誰もがやりうる失敗だ。しかしカフェでの立ち居振る舞いや服の着こなし方なんかは、周りにいる人はみな「経験者」である環境なのに自分が「未経験者」であるが故にボロが出るものである。

あれこれ考えてみたが、多分僕が怖いのはこの「未経験者」だと思われる(バレる)ことなのだろう。

 

 

 

 

 

大学は本当に色々な人が集まる。育った場所、時、好きなもの、積み重ねてきた経験、知っている知識の範囲…そういうものが人ごとに全く違うのだ。

そうすると人と関わるごとに、自分が全然知らない果てしなく広大な未経験領域の中から、この人はこの部分を知っている、あの先輩はこの部分に詳しい、あの後輩はこっちの部分に詳しい、といった感じに次々と「未経験者ぶり」を突きつけられることになる。

もちろんそれは励みになるし、ここが大いに恵まれた環境なのは百も承知なのだが、しかし僕は未だに自分の経験領域の小ささを受け入れてさらけ出すことができていない。

その躊躇が、巨大な器の小ささとでもいうべき恐れが、最初に述べた自意識の爆発の根本にあるものなのだろう。

 

 

 

これからさらに関わる人間は増えて、僕が知る未経験領域はさらに広がっていく。そう遠くないうちに自分の経験領域の狭さは隠しきれないものになって、僕はもっともっと沢山の恥をかくことになるのだろう。

 

とても恐ろしい話だし、正直なところできることなら死ぬまでひっそり虚勢を張って生き続けたいものだが、そういうわけにはいかないこともやっぱり理解している。

 

 

 

 

 

 

とりあえず、僕がまず挑むべきは、この真新しいニット帽なのかもしれない。

 

今日はだいぶ気温も上がりいい陽気の一日になりそうで、これならモコモコ上着もニット帽も必要ないだろう。

でも僕はあえてニット帽を被って出かける。

耳はどこまで隠れればいいのか、ロゴは真ん前にくればいいのか横にくればいいのか、そもそもこの服とニット帽が合っているのか、未だに全然分からないし慣れないけれど、それでも僕は分からないまま外に出よう。

 

 

頭に無知を被って玄関のドアを開けてみると、確かに、今日は割と暖かいみたいだ。

トンボノート開設

どうもはじめまして。
ブログ始めました。
トンボーイです。あだ名など持ったことのない人間なので、さっき30秒くらい悩み抜いた末に自分で決めたニックネームですが、トンボーイです。よろしくお願いします。広大なインターネットの海に自分の拙文を放流するのは初めてなので、おっかなびっくりのスタート。どうぞお手柔らかに。

 

 ブログの記事のコンテンツが決まっているわけではないので、とりあえずはなんでもアリの雑記を積み重ねていこうと思う。本のこと、映画のこと、趣味のこと、旅行のこと、撮った写真のこと、ふと気がついたこと、朝の電車で考えていること…。いつもは僕の頭の中で生まれては、その日の終わりに眠りにつくのと同時に消えていく色々なコトバの羅列を、気が向いた時にいくつか取り出してここに並べていこう。

 

 僕は現在20代の学生であり、この歳にして初めてブログなんてものをやるわけなんだけど、思い返してみると小中学生の頃からネットのブログやらチャットやらは存在していたし、周りにもやっている友達はたくさんいた。

  当時はちょうど若者を取り巻くネット環境は大きな転換期を迎えていた。例えばモバゲーやアメーバピグが隆盛を極めていて、アイコンでしか知らない人々と会話したり「友達」になったりする文化が少年少女のあいだにも浸透していった。人と繋がる垣根が下がり誰でも簡単にインターネットの海に入っていけるようになる、平成の縄文海進ともいえる変化が起こっていたのだ。

 同時にこの頃はガラケーが多数派であった最後の時期でもあり、シームレスでスマートなコンテンツが当たり前になった今では見られなくなった文化の最後の担い手となっていたようにも思える。ガラケーの決定ボタンのメッキが剥がれる遠因にもなったボタン連打必須のブラウザゲームとか(怪盗ロワイヤルとかああいうやつ)、(о´∀`о)的な記号を並べた絵文字とか、更新ボタンを連打しないと会話が進まないチャットとか(ガラケーではLINEもこの仕組みだった)、そういったやつだ。そのせいなのか分からないが、キリ番云々みたいなちょっとアナログな風習はまだギリギリ残っていたと記憶している。

 まぁとにかく、そんな感じで現在ほどあらゆるものがオンラインな生活ではなかったにせよ、僕ら若者はあの頃既に今の生活の入り口に立っていたと言えるだろう。

 

 そんな転換期にあって、僕がブログというものに手を出さなかった理由があるのかと言われれば、まぁ特にないんだけど、強いていえば慣れなかったのだと思う。文章を書くこと自体は嫌いではなかったけれど、いつも何かを書く時は、それを読む相手がどんな人なのかなんとなく分かった上で書くものだと思っていた。メールにしろ手紙にしろ学校の宿題の作文にしろ、文を書く時はそれが誰に読まれるものなのかということを頭の片隅に置いた上で書いていた。だから、ブログというネット上で不特定多数の人々に公開される場面では、どんな言い回しがいいのか、どこまでおっ広げて話せばいいのか、そういうことがよく分からなかったのだ。そんな理由で、これまではブログをやろうと思ったことはなかったし、例えばSNSも現実世界と同じような人々の間でしか動き回らないような使い方をしていた。

 

 しかし、人並みに20年と少し生きてきて、最近どうももったいないなと思うことが増えるようになった。本や映画の感想や考察、新しく買ったカメラで撮った写真、ふと遠出した時のちょっとした思い出、無為に過ごすなかで生まれた考え方の変化… そういうものが、ほとんど人と共有されることなくフッと流れていってしまうことがもったいないと思うようになったのだ。友達と色々なネタ話をして一緒に笑うのは好きだが、そういったとりとめもない話が友達との会話で出てくることは意外とないので、結局いつも頭の中で生まれたものは頭の中で消えていってしまう。そんな大層な人間ではないから、もしかしたら人にとっては聞いたところで「つまんねー」と思う話ばかりかもしれないが、それでも1人部屋の天井を眺めながら色んな思いをふわふわ消えていくままにしておくよりは、どこかに書いてみるのがいいんじゃないかと思ったのだ。そういうわけで、ブログを始めることを決意したというわけである。

 

 まずは自分の頭の予備保管庫みたいなつもりであれこれ書いていこうと思う。さっきもいったようにどんな人の目につくのか分からなくてどんな文を書けばいいかも分からないので、とりあえずは後々これを読む未来の自分に向けて書くということでやってみるつもりだ。ダラダラ長々と話した割に、要約すると「これは僕の、僕による、僕のためのブログです」ということになってしまうので、ここまで読んでくださった方からすれば、ふざけるな時間返せ!という感じになっても仕方ない話なのですが、どうかご容赦ください。

 最後に軽く僕のことを話しておきます。本や映画が好きで、SFが好き。アウトドア道具を見るのが好きで、登山も時々楽しみます。最近は一眼レフを買って使いこなせるようになるため試行錯誤中。何事も、「安い」ことがとにかく重要なタチ。その辺の話も含めて、これから少しずつ、楽しめてたまに役に立つ記事を書いていこうと思うので、何卒よろしくお願いします。

 2018年、今年が良き1年になりますよう。